わたしごと

私の実父が亡くなりました。
(長文です)
去年の夏に舌癌の手術をし、一ヶ月後にはリンパ腺に転移。他にも転移してないか検査をすると、すでに肝臓には小さな癌がたくさん出来ていて…手がつけれないとのこと。
今年いっぱいもつかどうか…と思ってました。


妊婦の私がようやく安定期に入るGWに会いに行くからっと4月中旬に伝えると、あれよあれよと急変したらしい。
私が行った5月2日には意識もモウロウとし、目は開くが見えてはいない様子。
翌日(5月3日)も面会に行ったが…いわゆる危篤。
「会わせたい人がいるなら…」っと医師に言われた。子供たちと旦那は自宅の北海道に置いてきたが、会わせるにしても変わり果ててしまった姿を見ても…っと思い、呼び立てることはしなかった。
親戚には、入院していることは伝えていたので 特に連絡はしなかった。
(兄貴には連絡したが、結局 死に目には間に合わなかった。)

5月3日の夕方に「4人部屋から個室に移りました」っと病院から連絡が入り、病院から帰宅早々の私と母は また病院へ向かうためにタクシーに乗り込む。
私と母は病室に泊まった。

5月4日は 日の出前に父は起きていた。目が見えるようで私たちを目で追う。
私の手を握った。
力強く、お父さんの大きな骨太の手だった。
「最後の力ってやつかもね〜」って言った瞬間、私の涙はつたっていた。父は手を離してはくれなかった。

舌癌で舌を全摘した父は話が全く出来ないので、普段とは別人のように無口。
もし話が出来たら「最後の言葉」は、なんて言うだろうね、お父さんは…。っと母。
「私(愛娘)の顔を見たらホッとして早く逝っちゃうかもね」なんて言っていたけど もしかしたら本当にそうなっちゃうかもよ…。っと私。
「最後くらい“ありがとう”って涙を流したりしないかしら」っと母…それはTVの見すぎ…ウチの父に限ってナイだろ。

父は聞く耳を立てて、私と母の会話を一所懸命聞いているような目をしていた。

お父さんに見せようと、私の双子たちを動画で撮ってきていた。
朝の5時、体調が良さそうなので見せた。
すぐそこに子供達が居るような…笑い声や唄が病室に響く。
手で何かを探しているような素振りをしたので、デジカメだと伝えると力強くデジカメを握って離さなかった。とても喜んでいた。
今日は、コミュニケーションがとれる。話せなくても、寝たきりでも、伝わってくる。
それから数時間、私と母はお喋りをし 父は目を開け聞き耳を立てるっという いつも通りの穏やかな時間が流れた。


お昼頃、冷や汗(?)が出ていた。なかなか引かず 顔から血の気が引いていく。痛み止を胃に注入された。
「婆ちゃん達がもうすぐ迎えに来てくれるかもよ。振り返らずに光に向かって進めば会えるよ。力を抜いて、流れに逆らわないで 流れてイイよ。私はまだ行けないけど、お父さんは先に行って婆ちゃん達と楽しんでて」っと私が話をしながら頭をなでなでしてたら 眠った。
そのまま、目を開けることなく 15時頃亡くなった。

綺麗な表情をしていた。
癌でパンパンに赤く腫れた首まわりも、徐々に赤みがなくなり 腫れも少しは引いた。
抗がん剤の影響か…すっかり黒髪になり、若返った父。首まわりが腫れているのでシワも無く、艶もよい。70歳には見えない。



亡くなった方を拝見することは今まで度々ありましたが、人を看取ったのははじめてでした。

69年も好き勝手な人生を送り、闘病生活が1年3ヵ月。
ヒトってこんなに呆気なく、キレイな顔をして死ねるんだ〜って羨ましく思いました。


6日、火葬場へ向かう途中にスカイツリーの近くを通過しました。スカイツリーの完成をとても楽しみにしていたので、私と母と棺に入った父と三人揃って見れて記念になりました。
その晩に、兄貴がようやく到着しました。
さっそくお経をあげてくれ、とても喜んでいることでしょう。
翌日、兄の寺に向かうべく飛行機移動。兄のキャリーバックの中には 骨になった父が入っている。なんとも不思議な気分。
不謹慎にも「家族4人だけになるのは何年ぶりだろうね」っと私と母と笑っていた。



わたしごとの出来事ですが、綴ることにしました。
あの世に逝った父のお陰で 改めて家族の絆を感じました。
やっぱり 私たちは四人家族でした。



亡くなってから、いつも近くにいる気がします。